2018年9月28日金曜日

2018年3月 説教要旨


2018年3月4日
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 ヨハネ15:1

主イエスは、弟子たちが新しい教会の指導者となる時に、主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と言われます。

「まことのぶどうの木」は、旧約のイスラエルが「酸っぱいぶどう」(イザヤ5:2)や「悪い野ぶどう」(エレミヤ2:21)になったので、「本来あるべきぶどう」として、農夫である父なる神によって植えられ(→3:16)、「手入れ(剪定)」して実を結ばせられます。

ぶどうの枝(弟子たち)は「既に清くなっている」(→1310)ので、大切なのは、「木に(継続的に)つながっている」ことです。そうすれば、「その人は豊かに実を結ぶ」ことが出来ます。「私たちはキリストの外にいる限り、どんな良い実りももたらすことはない」(カルヴァン)でしょう(洗礼から成長へ!)

実りの豊かな教会のキーワードが3つあります。①「望むものを何でも願」うこと(祈り)。父なる神は豊かな収穫で「栄光をお受けに」なります(一反で何俵と自慢する農夫!)。②「愛にとどまって」いること。③「喜びが満たされる」こと。主につながっている教会は成長します(これからの福山教会!)。

教会は主イエスを中心にした集まりです。「ひとつのみかて(御糧)ともに受けて」(パンとぶどう酒!)、「君の来ますを切に祈」(讃191番)って待ちます。



  
2018年3月11日
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 ヨハネ1516

主イエスが去られた後、弟子たちは自立を迫られますが、主が彼らを選んで下さったのですから安心してよいのです。

彼らは「互いに愛し合う」(→1334)べきですが、具体的には「友のために自分の命を捨てる」(主の十字架!)ことです(命を削るほどの労苦→Ⅱコリント1116以下)。今の彼らは、主から「僕とは呼ばない…友と呼ぶ」と言われるほどに成長しましたが、3年半前に主に選ばれ(→1:35以下)、「出かけて行って実を結び、その実が(いつまでも)残るように…任命」されたのです。「互いに愛し合い」つつ伝道すべきです(不肖の弟子→主に肖(に)た弟子たち)。

「世があなたがたを憎むなら…」と主は予告され、ご自分を憎んだ世の人々は彼らも憎むが、「僕は主人にまさりはしない」(1316)ので驚く必要はないのです。「理由もなく、わたしを憎んだ」(詩3519)とある通りです。「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ2816)!

そういう時でも、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(聖霊)が主を証しされるので、彼らも証しします(→Ⅰヨハネ1:1)。

「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(文語)と言われる主が私たちを用いられます(→出3:11以下)。「主のものとなりけり」(529)です。




2018年3月18日
「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネ1633

14章から始まった「別れの説教」の最後で、主イエスは弟子たちに勝利を語り、勇気を出すように、と励まされます。

これまで主は、「たとえを用いて話して」来られましたが(→飛行機の話をするレオナルド・ダヴィンチ)、これからは「父御自身が、あなたがたを(友のように)愛しておられる」ので、「あなたがたはわたしの名によって願う」ことが出来ます(→「祈りの人」シンプソン)。

御子イエスは、「父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と、御自分が神と一体であることをはっきりと話され、弟子たちもそれに対して、「わたしたちは信じます」と答えます(GPSで自分の居場所が確認できるようになって安心するように!)。

主は彼らの成長を喜ぶと共に、「今ようやく信じるようになったのか」と言われます。「弟子たちが余りにも有頂天になっているので、キリストは彼らを戒めておられる。」(カルヴァン) 「あなたがたが散らされて自分の家に帰」るようになっても、「わたしによって(主の懐の中で)平和を得る」でしょう。

誰も皆「世で苦難がある」のですが、大丈夫です。主は苦難を受けて、「成し遂げられた」(1930)と勝利を宣言されます。「インマヌエル(神共にいます)の君」(161)が私たちの主です。



  
2018年3月25日
「父よ…すべての人を一つにしてください。」 ヨハネ1721

17章では、主イエスは先ずご自分のために(1-5節)、次に弟子たちのために(6-19節)、最後にこれから形作られる教会のために(2026節)祈られます。

「彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、「ほかの羊」(1016)とか「ギリシャ人」(1220)と言われるユダヤ人以外のクリスチャンのことで、「彼らもわたしたち(御父と御子)の内にいるように」と祈られます(→Ⅰヨハネ1:3)。それを見て、神が「彼ら(教会)をも愛しておられたことを、世が知るように」なるでしょう(グローバルな教会→外国人の多い福山教会!)。

そのクリスチャンたちを、「わたしのいる所(神の右の座)に、共におらせ…わたしの栄光を、彼らに見せ」たいと主は願われます(グローリアス《栄光に満ちた》教会→福山教会に誇りを!)。

「正しい父よ」と呼びかけて、教会が世の中の御利益信仰に妥協せず、「(神の)御名を彼ら(弟子たち)に…これからも(新しい信者に)知らせ」て、彼らの信仰が成長するように、と主は祈られます(グローイング《成長を続ける》教会→成長する年長者は若々しい!)。

「すべての(種種雑多な)人」を受け入る教会(若い牧師でも育てた!)は「栄えに満ちた神の都」(194)です。

2018年2月 説教要旨


2018年2月4日
「わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった。」 ヨハネ1318

弟子たちの足を洗ってから、主イエスは彼らに、これからのことを話し、何が起こっても大丈夫なようにされます。

一つのことは、彼らがやがて教会の指導者になった時の心得です。主が示してくださった模範にならって、「あなたがたも互いに足を洗い合う」べきです(→ルカ2226 「仕える者のように」)。

もう一つは、ユダが裏切ること(→6:70)ですが、主は「どのような人々を選び出したか分かっている」と言われます。「この『分かっている』は、本来、神に属することである。」(カルヴァン)神の御子は、ダビデと同じように、大切に育てた弟子が「わたしにむかってそのかかとをあげた」(詩4110 口語訳)という場面に直面されますが、「わたしは(神で)ある」故に、大丈夫です。

主は「心を騒がせ」ながらも、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言い渡されます。「イエスの愛しておられた者」(使徒ヨハネ)にペトロが合図して、「だれのことですか」と尋ねさせ、主は「パン切れを…ユダにお与えに」なります。主は、迷うことなく、救い主として前進されます。

「飼い犬に手をかまれる」ような思いをしながらも、主は弟子たちのことを心配されます。「我がため悩みを忍びたまいし…み神の小羊」(257)です。



  
2018年2月11日
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」 ヨハネ1334

ユダが去った後、主イエスは残った11人の弟子に、彼らだけになっても絶望せず、心を一つにせよ、と教えられます。

ユダの裏切りが決定的になった時、主は「人の子は栄光を受けた…神も…栄光をお与えになる」と、十字架と復活と世界宣教の開始を宣言し(→1224「一粒の麦」)、弟子たちを励まされます。

主は、「子たちよ…あなたがたはわたしを捜すだろう」と、これからのことを言い、「新しい掟」を示されます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と比べると、レベルが低いようですが、「友愛の絆が弟子たちの間ではるかに固く、より緊密に結ばれているのは当然」(カルヴァン)です。そうすることで、「あなたがたがわたしの弟子であること」を証しします(福山教会!)。

ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(クォ・ヴァディス?)と尋ねて、主から「あなたは三度わたしを知らないと言う」と予告されます。「今はついて来ることはできないが、あとでついて来る」と言われます(→2119)。

旧約時代にも「愛の掟」(レビ1918)はありましたが、主は愛のサンプルとなられたので(→13:1)、「主よ、み手もて」(讃285番)と従うのです。




2018年2月18日
「あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。」 ヨハネ14:2

14章から16章までは「別れの説教」と呼ばれ、主イエスは弟子たちを安心させ、希望を持たせようとされます。

主は、不安な彼らに、「心を騒がせるな」(→1321)と言い、「神を信じ…わたしを信じなさい」と勧められます。「私たちの信仰は、ただキリストだけに向けられるべきである。」(カルヴァン)「わたしの父の家(天国)には住む所がたくさんある…その道をあなたがたは知っている」と言われます(葬儀!)。

トマス(→2024)は、「その道」を具体的に知ろうとしますが、主は「わたしは(真理と命の)道」だと言い、「わたしを知っているなら、わたしの父(なる神)おも知る」のだから、安心しなさいと言われます(そっくりな親子!)。

フィリポ(→1222)は、他の弟子たちを執り成すように、「御父(なる神)をお示しください」と言いますが、主は「わたしを見たものは、父を見たのだ」と同じ答えをされます。そして、「はっきり言っておく」と念を押して、これから弟子たちは「もっと大きな業を行う」と予告され、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とも約束されます(福山教会の将来!)。

主は天に帰られますが、そこに住む所を備えてくださり、地上に残る私たちは「安かれ」(讃298番)と歌うのです。




2018年2月25日
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」 ヨハネ1418

心細くなっている弟子たちに対して、主イエスは、ご自分が決して彼らを放っておかない真の友だ、と言われます。

別れに際して主の願いは、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ことです(恩師の教え!)。そのために主は「別の弁護者」として「真理の霊」を遣わし、「この霊があなたがたと共におり…内にいる」ようにし、彼らに対して「わたし自身を現す」でしょう。

「イスカリオテでない方のユダ」(→マルコ3:18「タダイ」)が、「世にはそうなさらないのは、なぜでしょう」と質問します(他の人が気になる!)。主は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」のだから、今はその人たちに語るのだ、と言われます(→2121「主よ、この人は?」と質問するペトロ)。

主は改めて聖霊について、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が…わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と語られます(使徒ヨハネ自身にも!)。まもなく「世の支配者」(サタン)が来ますが、大丈夫です。主は「平和(シャローム)を…残し」て行かれます(→マタイ28:20)。

主は弟子たちを愛しておられ、彼らを「みなしご」(オルファノス)には決してされません。「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)に祈ることが出来ます。

2018年1月 説教要旨


2018年1月7日
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネ1224

エルサレムの神殿におられる主イエスを訪ねて、数人のギリシア人が来ます。主は世界宣教の開始を告げられます。

彼らは、「イエスにお目にかかりたいのです」と、「ベトサイダ(ギリシア風の町)出身のフィリポ」に頼んで主の弟子になろうとします。彼は、友達のアンデレと共に主に紹介します(→1:44)。

外国人への宣教の道が開けたのを見られた主は(→1011)、「人の子(イエス)が栄光を受ける時が来た」(十字架→復活→世界宣教)と宣言されます。主は、「一粒の麦」として(→Ⅰコリント1536)、「地に落ちて死」ぬことによって「多くの実を結ぶ」のだと、死を前向きに理解されます(私たちもそうありたい!→Ⅱコリント4:1618)。

主は弟子たちに向かって、「永遠の命に至る」ために「この世で自分の命を憎む」生き方を勧められます。「私たちは絶えず目的を目指し…世の中を通り過ぎて行くなら、それで良いのである」(カルヴァン) 主は、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と、いつも主から離れずに歩む生涯が神の前に尊いのだと言われます(→マタイ2521)。

私たちのために一粒の麦として死んでくださった主を見つつ、「われ何をなして主に報いし」(332)と歌いましょう。



   
2018年1月14日
「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」 ヨハネ1235

十字架を前にして、さすがに主イエスも平気ではなく、心の葛藤を経験されますが(ヨハネ福音書のゲッセマネ!)、それに打ち勝って前進されます。

主は、「わたしは心騒ぐ」と正直に言い、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と心の中で考えても、それを打ち消して「父よ、御名の栄光を現してください」と言われます(→マルコ1436)。父なる神の「天からの声」が主を励まします(私たちの信仰生涯も!)。

群衆は「雷が…天使が…」と見当違いの想像をしますが、主は「この声は…あなたがたのためだ」とされ、「今こそ…この世の支配者(悪魔)が追放され…わたしは…上げられ…すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と、十字架によって始まる救いを予告されます。「十字架は馬車のようであり、キリストはそれですべての人を父の所まで高くあげる」(カルヴァン)のです(十字架の塔!)。

群衆は理解しないのですが、主はご自分がメシアであって、天にある光となって暗闇の世に輝くので、「光のあるうちに歩きなさい」と招かれます。私たちも「世の光」(マタイ5:14)になります。

十字架を見上げつつ、天に帰った先輩たちを思い、「わが身も勇みて十字架を負い」(讃331番)と歌いましょう。




2018年1月21日
「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」 ヨハネ1246

ヨハネ福音書は12章の終わりで、主イエスのユダヤ人への伝道活動をしめくくります。主は最後まで、人々が信じて救われるように、招き続けられます。

主は、「多くのしるしを彼らの目の前で行われた」のですが、彼らは信じません(日本人も!)。イザヤが、「主の御腕は、だれに示されましたか」(53:1)とか、「神は彼らの目を見えなくし…彼らは…立ち帰らない」(6910)と預言した通りです(→トーマス・フランシス宣教師の福山周辺地域への伝道)。

一方で、「議員(支配階級)の中にもイエスを信じる者は多かった」のは事実です(→ニコデモやヨセフ)。彼らは「会堂から追放されるのを恐れ…公けに言い表わさなかった」のですが、潜在的な信仰者になります(伝道の希望!)。

最後に、「イエスは叫んで…」として使徒ヨハネは主のメッセージを再現します。 ①「わたしを遣わされた方(神)」との一体性(→524「光として世に来た」救い主(→1235「世を裁くためではなく、世を救うために来た」神の御子(→31617)。

「キリストは、初めから光だったが、光としての務めを果すために」(カルヴァン)父のもとから来て、「我に来よ」(517)と招いてくださる救い主です。



  
2018年1月28日
「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い…」 ヨハネ135

13章から17章までは「最後の晩餐」の記事です。その最初で、主イエスは弟子たちの足を洗い、彼らの心が本当に清くなるように、という願いを示されます。

「過越祭の前」に、主は「御自分の時が来たことを悟り…弟子たちを愛し…愛し抜かれ」ます。「キリストが、まさに死のまぎわに抱いていたと同じ愛情と意志とを、今日も私たちに抱いているのを疑ってはならない。」(カルヴァン)

「夕食の時」になっても、弟子たちは「誰が一番偉いか」と席順を争い(→ルカ2224)、ユダが「イエスを裏切る考え」を持っていることを知って(→マルコ1410)、主は「食事の席から立ち上がって…弟子たちの足を洗い…ふき始められ」ます。一番心の汚れたユダについて、「皆が清いわけではない」と言われます(ユダが最初に足を洗われた?)。

ペトロが、「主よ、あなたがわたしの足を…」と躊躇し、「決して洗わないでください」と足を引っ込めると、「わたしと何のかかわりもないことになる」と、主は警告されます。「手も頭も」と言うと、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と答えられます(新生後の罪→Ⅱコリント517)。

私たちは生涯、主のもとに来て(主日毎に!)、「君なるイエスよ、汚れし我を洗い清め」(339)と歌いましょう。

2017年12月 説教要旨


2017年12月3日
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 ヨハネ1125

ラザロの墓の所で、主イエスを迎えたマルタは、行動的なだけでなく(→ルカ10章)、信仰的な女性で、主が愛と力に満ちた救い主である、と信じています。

「ラザロは墓に葬られて既に4日もたって」いて、エルサレムからも「多くのユダヤ人が…慰めに来て」いました。マルタは、「イエスが来られたと聞いて」迎えに行きますが、彼女は他の誰よりも主を待っていたのです(待降節!)。

彼女の願いは、主が早く来てラザロを癒してくださって、「わたしの兄弟は死ななかった」となることでした。しかし今も彼女は、主が「神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」と固く信じています(→シンプソン「賜物より癒しより与え主ぞ…」新聖歌346番)。

主は、「あなたの兄弟は復活する」と特別な約束をされますが、彼女は「終りの日の復活」のことしか考えません。改めて、「わたしは①復活…②命…①死んでも生き…②決して死ぬことはない…信じるか」と言われると、「はい…信じております」と答えます。十分に理解できなくても、主がおられるだけで満足です(→キリスト抜きのクリスマス!)。

主を信じる者は、どんなことがあっても、「主われを愛す、主は強ければ」と歌って(讃461番)、強く生きるのです。



  
2017年12月10日
「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と…」 ヨハネ113536

「神殿奉献記念祭」(ハヌカ)が終わって、過越祭が近づいた頃(十字架!)、主イエスは死に直面して苦しむ者と共にいて、怒り、同情し、祈られます。

マルタに呼ばれてラザロの墓の所に来たマリアが泣き、ユダヤ人も泣くのを見て、主は「心に憤りを覚え(憤慨し→マルコ145)、興奮」されます。人間を苦しめる死(→「最後の敵」Ⅰコリント1526)に対して、怒る神の御子です。

「どこに葬ったのか」と言って墓に近づきつつ、主は「涙を流され」(→「泣く人と共に」ローマ1215)ます。墓の石を開けようとすると、マルタは「主よ…もう…」と言って拒みますが、「信じるなら、神の栄光を見られる」と言って、主は人間の弱さに同情しつつも、それに負けずに救いの業を進められます。

墓の入口で主は先ず、「父よ…感謝します」と祈られます(→Ⅰテサロニケ5:18)。御父は「わたしの願いをいつも聞いてくださいます」と、御子の確信を述べた上で、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で呼び、その通りになります。

「神の子は、私たちの肉体をまとった時、人間的な諸情念も身にまとわれた」(カルヴァン)のです。「人となりたる活ける神」(讃121番)を賛美しましょう。




2017年12月17日
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好
都合だと…」 ヨハネ1150

洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と言いましたが、主イエスは過越しの小羊として死ぬために来られた救い主です。

ラザロの復活事件は大きな波紋を引き起こします。ユダヤ人の中には主を信じた者もいましたが、危険視した者たちも多く、「ローマ人が来て…滅ぼしてしまう」ことを恐れ、「どうすればよいか」と焦ります(弱いユダヤ人たち!)。

「その年の大祭司であったカイアファ」は、国民を守るために主を殺せばよい、と強い意見を述べます。しかし、「彼の舌は、もっと髙い所(天)から動かされた」(カルヴァン)のであって、「イエスが国民のために…散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」という預言をしたのです(神の強さ!)。

「ユダヤ人の過越祭(→出エ1213)が近づいた」時、「イエスを逮捕する」命令が出ている中で、主はエルサレムを去り、「荒れ野に近い地方のエフライムという町」に危険を避けられます(用心深い主!過越しの小羊となるため…)。

カイアファは「民(ユダヤ人)の代わりに」と言いましたが、主は全人類のために死ぬ覚悟です。「(虫のような)我がため」(讃138番)に主は来られました。




2017年12月24日
「マリアが…ナルドの香油を…イエスの足に塗り…家は香油の香りでいっぱいになった。」 ヨハネ123

クリスマスの時、主イエスを迎える私たちは何をすべきか、マリアのしたことを中心に教えられたいと思います。

「過越祭の6日前」、主イエスは身を隠しておられたエフライムから出て、ベタニアのラザロの家を訪ねられます(→マルコ14:3-9)。盛大な歓迎会が開かれる中、マリアは主イエスの全身に香油を塗って精一杯の感謝を表します。

「後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」は、「なぜ…三百デナリオン(三百万円!)で売って、貧しい人々に施さなかったのか」と彼女を非難しますが、主は、「わたしの葬りの日のために」してくれた、と喜ばれます。使徒ヨハネは「彼は盗人で…(お金を)ごまかしていた」と、あとから知ります(→人は変わる、良くも悪くも、ペトロとユダ!)。

主がおられることを知って大群衆が来ますが、彼らの目当ては「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るため」でもありました。「彼らはキリストの徳の驚くべき証拠をラザロの中に見ようとした」(カルヴァン)のです(クリスチャンとして存在することが大切!)。

香油の香りは家の中から外まで広がったでしょう。主を迎えて、「いそぎ行きて拝まずや」(111)と歌いましょう。




2017年12月31日
「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」 ヨハネ1215

主イエスはメシアとしてエルサレムに入城されますが(→マルコ11:1-11)、世界に平和をもたらす救い主です。

「その翌日」(しゅろの日曜日)、主が来られたのを迎える人々は、「なつめやしの枝」を持って歓迎します(青々として力強い!)。「ホサナ(今お救いください)…イスラエルの王」と叫ぶのも政治的な解放者として期待したのです。

主は、「ろばの子を見つけて」乗られます(→マタイ21:7)が、それは「柔和な方で…子ろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)とあるように、平和な姿を示すためでした。弟子たちがその意味を知ったのは、「イエスが栄光を受けられた」(→1223)後でした(ヨハネも!)。

この時、「イエスがラザロを墓から呼び出し…死者の中からよみがえらせた」証人たちや、「イエスがこのようなしるしをなさったと聞いた」人々が来ていました。「彼らはイエスにメシアの栄光を帰する至極当然な理由があった」(カルヴァン)のです(→使徒2:41「三千人ほどが仲間に」)。ファリサイ派の人々は、「世をあげてあの男について行った」と嘆きます(伝道する希望!)。

今の時代に私たちは、一人一人の命を大切にされる「平和の主」(讃130番)を心から歓迎し、賛美したいものです。

2017年11月 説教要旨


2017年11月5日
「わたしは良い羊飼いである…わたしは羊のために命を捨てる。」 ヨハネ1011-15

主イエスは、御自分こそ良い羊飼いであり、羊(私たち人間)を救うために父なる神が最後に送られた神の愛子だと言われます(→マルコ12:1-8)。

旧約の時代にも良い羊飼いはいました(預言者たち!)が、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」ような「雇い人」根性の者もいました(今も!)。主は「羊の門」として多くの羊飼いを派遣されましたが、最後の手段として御自分が来られます(→ブラジルの無牧師時代に牧師になった役員たち)。

主にとって、「この囲いに入っていないほかの羊」(ユダヤ人以外の異邦人)も大切です。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」でしょう(「伝道開始百周年感謝バザー」の目的!)。

「父(なる神)はわたしを愛してくださる」のですが、それは主が「命を…捨てる」ことさえ喜んでされるからです。「キリストは、自分自身の命よりも私たちの救いを大切にする故に、御父に愛されていると確言されるのを驚く必要はない。」(カルヴァン) 「父から受けた掟」に従う御子です(→1431)。

今の時代に、羊のように不安と危険の中で生きている私たちです。命さえ捨てて守ってくださる羊飼いを、「慈しみを語り伝えん」(讃502番)と歌います。



  
2017年11月12日
「…だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」 ヨハネ102930

冬になり、「神殿奉献記念祭」(ハヌカ―)が祝われる中で、主イエスが登場し、御自分が暴力的でない、平和的で羊飼いのようなメシアだと宣言されます。

紀元前164年に、神殿を汚した占領軍に反抗して奪回し、それを清めた英雄(マカベウス家のユダ)を思って、ユダヤ人たちは、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と主に迫ります。しかし主は、暴力や軍事力による勝利という誘惑を退けられます(→マタイ4:8)。

主は、「わたしは言った…父の名によって行う業…しかし…信じない」のは、「わたしの羊ではない」(羊になりたくない)からだ、と反論されます。少数でも「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」ことが出来ます(主の弟子たち!)。

主の羊とされた者は幸いです。主は彼らに「永遠の命を与え…決して滅びず…手から奪うことはできない」者とされます。さらに「父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大(大切)であり、だれも父の手から奪うことは出来ない」と言われます。「これは素晴らしく美しい聖句である。」(カルヴァン)

主をメシアとして遣わされた父なる神のお考えは、「わたしと…一つである」と断言されます。羊とされた私たちは、「平和の主」(讃130番)を賛美します。




2017年11月19日
「『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。」 ヨハネ1036

主イエスが御自分を神と等しい者とされることを、ユダヤ人たちは問題にしますが(→5:18)、それは事実です。

「わたしと父とは一つである」と言われた主を、ユダヤ人たちは「石で打ち殺そうと」します(→レビ2416)。神を「父」と呼んだり、親しく語りかけたりすることが問題ではなく(『屋根の上のバイオリン弾き』!)、「人間なのに、自分を神としている」ことが問題です。

主は、「あなたたちの律法」(旧約聖書)の中にある、「あなたたちは神々である」(詩82:6)という文章を引用されます。民の指導者でさえ、そう呼ばれるのに(ファリサイ派の人々も!)、特別に「父から聖なる者とされて世に遣わされた」主が「神の子」と言われても、問題はないはずです(聖書の権威!)。

主は最後に、「父が与えてくださった多くの善い業(仕事)」について、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と訴えられます(仕事は嘘をつかない!)。「何のしるしも行わなかった」洗礼者ヨハネとは対照的な主です。

主は神の御子ですが、「天にまします我らの父よ」と呼ぶことを私たちに許してくださる、「永久に…変わりなき」(497シンプソン作)救い主です。




2017年11月26日
「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 ヨハネ1111

エルサレムから離れた所におられた主イエスに、マルタとマリア(→ルカ103842)から、弟のラザロの危篤が伝えられますが、すぐには行かれません。

姉妹が使用人を遣わして、「主よ、あなたの愛しておられる者(ラザロ)が病気なのです」と伝えても、「この病気は死で終わるものではない」と言い、「なお2日間同じ所に滞在され」ます。「神の栄光のため」にそうされるのです。

ラザロが死んだ後、主は「もう一度ユダヤに行こう」と言われ、弟子たちは恐れます。「昼のうちに歩けば…この世の光を見て…夜歩けば…その人の内に光がない」と、今はまだ昼だと言われます。「世にいる間、世の光」(9:4)である主は、その光を最大限に輝かせる時を待っておられるのです(復活の主!)。

いよいよその時が来て、主はラザロを復活させるべく出掛けられます。行きたくない弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と引きとめようとします。「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」だけは、「一緒に行って死のうではないか」と元気ですが、彼も主を誤解しています(→2024)。

主は、すぐに助けに来られなくても、私たちを愛して「友」と呼んでくださる「慈しみ深き友」(312)です。

2017年10月 説教要旨


2017年10月1日
「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 ヨハネ851

主イエスとユダヤ人の論争(3章と5章に続く第3ラウンド!)で、信じる者は主と共に永遠に生きる、と語られます。

彼らが、「あなたはサマリア人(背教徒)で悪霊に取りつかれている」と攻撃すると、主は「わたしは父(なる神)を重んじている」と反論し、「わたしの言葉を守る」(主から離れずにいる8:31)者に、永遠の命を約束されます(3:15)。「疑いもなくキリストは、この群衆の中にも治癒し得る人たちがいると知っておられた。」(カルヴァン)

主がご自分を権威ある者とされるので、ユダヤ人たちは、「決して死を味わうことがない」とは「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と反発します。主は、父なる神について、「わたしはその方を知っており、その言葉を守っている」として、神と等しい力を持っているとされます(「癒し主イエス!」)。

主にとって、アブラハムは親しい存在で(近所のおじさん!)、「(メシアとしての)わたしの日を見るのを楽しみにしていた」のであり、主は「アブラハムが生まれる前から」(地上では「50歳にもならない」のに)存在された方です。

主と共にある私たちは、豊かな祝福(四重の福音!)を約束されて、「主のものとなりけり」(讃529番)と喜びます。



  
2017年10月8日
「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」 ヨハネ9:1

「神殿の境内から出て行かれた」主イエスは、町の中で生まれつきの盲人と出会い、その目を開けて明るくされます。

弟子たちは冷たい見方をし、「だれが罪を犯したためですか」と原因を探りますが、いつもそうとは限りません(→ヨブやパウロ)。主は、そういう過去の詮索よりも、「神の業がこの人に現れるため」という未来に目を向けることが大切だ、とされます(日野原重明!)。

その神の業を実行するのは主の働きです。「わたしたちは…(神の)業を、まだ日があるうちに(十字架の前に!)行わねばならない」として、「イエスは…唾で土をこねてその人の目に」塗られます。「キリストはその到来によって、普段にはない新しい輝きを生じさせたもうた」(カルヴァン)ので「世の光」です。

この盲人は、主に言われた通り、「シロアム―『遣わされた者』(メシア)の池」に行き、「目が見えるようになって、帰って来」ます。彼をよく知る人々でさえ、「その人だ」と言う者も、「似ているだけだ」と言う者もいるほど、彼の顔つきが変わって、喜びに満ちています。

体の目と共に心の目が開いた時、この盲人は生きる元気が与えられます(年長者も!)。「安かれ我が心よ、主イエスは共に」(讃298番)と明るく生きます。




2017年10月15日
「ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。」 ヨハネ9:15

盲人の癒しを巡って、ファリサイ派が取り調べをする中で、本人と両親が勇気を持って主イエスを証しします。

「どうして見えるようになったのか」という質問に対して、盲人は主がして下さった事実だけを答えます。「安息日を守らない」ことを問題にする頭の固い人もいる一方で、「罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う頭の柔らかい人もいます。盲人は「あの人は預言者です」と大胆です。

批判的な多数派はついに両親を呼び出し、①「この者はあなたたちの息子か」②「生まれつき目が見えなかったか」③「どうして今は見えるのか」、と質問しますが、彼らは①と②は事実だとして、主への感謝を表明します。「両親はその複雑な質問全体の中から、半分だけを選んで答えている。」(カルヴァン)

しかし、③については、「本人にお聞きください」と言うだけで、自分たちは現場にいなかったので証言できないという態度を貫きます(賢い両親!)。「会堂(シナゴーグ)から追放」されると生活ができません(戦時中の福山教会→『御言葉に導かれる教会』133頁以下)。

ルターは教皇の破門予告に勇気をふるって「私はここに立ちます」と断言し、「神はわがやぐら」(267)とします。



  
2017年10月22日
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える…。」 ヨハネ9:25

ファリサイ派は二度目に盲人を尋問しますが、彼は主がしてくださった事実を忘れない故に大きな力を出します。

彼らは盲人が嘘をついていると疑って、「神の前に正直に答え(て栄光を帰し)なさい」と脅しますが、彼は「今は見える」と事実を語り、主はモーセ以上に力があり、「神のもとから来られた」方だと告白します。事実は人を力付けます(復活の主と出会ったパウロ→Ⅰコリント15:7「わたしにも現れた」)。

彼らは怒って「彼を追い出し」ますが、主は彼を見つけて「あなたは人の子(となった神の御子=メシア)を信じるか」と問われ、彼は「主よ、信じます」と告白してひざまずきます。「この盲人は、キリストが神の子であると確信して…彼の前にひれ伏した。」(カルヴァン)

主が「わたしがこの世に来たのは…見えない者は見えるように…見える者は見えないように」するためだと言われるのを聞いて、ファリサイ派は反発しますが、「『見える』とあなたたちは言っている」のが問題だ、と言われます(病気を認めないために治らない人!)。

盲人は「ただ一つ」のこと、即ち「イエスという方」のおかげで「今は見える」ことを感謝し、「主イエスを知りたる嬉しきこの日や」(讃516番)と歌います。




2017年10月29日
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。」 ヨハネ10:3

主イエスは、ファリサイ派が指導者として不適格なので、「群衆が飼い主のいない羊」(マタイ9:36)のようだとして、本当の羊飼いの姿を教えられます。

先ず「悪い羊飼い」は、「羊の囲いに入るのに門を通らないで…盗人…強盗」として、自分の利益を求めてやって来る者で、「羊は…決してついて行かない」でしょう(→「何のことか分からなかった」ファリサイ派の人々)。

次に「良い羊飼い」は、「門から入る者は、羊の羊飼」(口語訳)と言われる通り、「門番」から認められています。「この語を神と理解したい人がいても私は反対しない。」(カルヴァン) 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出し…羊はその声を知っているので、ついて行く」でしょう(牧師と信徒の関係!)。

また「幸せな羊」は、「わたしは羊の門である」と言われる主イエスを信じる者たちです。「わたしを通って入る者は救われ…牧草を見つける」でしょう(良い羊飼いたちに導かれて!)。主は「羊が命を受け…豊かに(溢れるほど)受けるため」に来てくださったのです。

聖書の説き明かし(説教)を聞きながら、神の声、主イエスの声を聞き分ける者になれれば幸いです。「飼い主わが主よ」(讃354番)と歌いつつ歩みます。


2017年9月 説教要旨


2017年9月3日
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。…もう罪を犯してはならない。」 ヨハネ811

この「姦淫の女」のエピソードは、前後に関係ない独立した断片です。主イエスは罪深い者も救われる神の御子です。

「姦通の現場で捕らえられた女」をファリサイ派の人々は「訴える口実を得るために」主の前に連れ出します。モーセの律法は「こういう女は石で打ち殺せ」と厳しいのです(→レビ2010、申命2224)。「あなたはどうお考えになりますか」と、主を苦しめる質問をします。

それに対して主は、「かがみ込み、指で地面に何か書き始め」て、無視されますが、彼らがしつこく問い続けるので、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず(最初に)、この女に石を投げなさい」と、責任も重い証人になるように要求されます(→申命177)。

人生経験の長い「年長者から始まって…立ち去ってしまい」ます(死刑中止)。結果的に「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」だけです。「キリストの裁きの座の前に引き出され、罪ある者とされるほど幸せなことがあろうか。」(カルヴァン)彼女は覚悟を決めてそこにいたでしょうが、主は「わたしもあなたを罰しない」(口語訳)と釈放されます。

罰を受けるのが当然の罪深い私たちのために、「探し求めて救いたまいし主の御恵み」(249)を賛美しましょう。



  
2017年9月10日
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 ヨハネ8:12

仮庵祭の時、神殿の外庭の「宝物殿の近く」で、主イエスはご自分が「世の光である」と語られ、人々を招かれます。

祭りの間、その庭には4基の燭台が据えられて、夜になると明るい光を放って「火の柱」(出エジプト1321)を象徴していました。主は光として来たと言われますが、ファリサイ派は、「自分について証しする」のは無効だとします。

主は一つ一つ丁寧に答えられます(子供達相手に相撲を取る横綱のように!)。①「自分がどこから来て、どこへ行くのか」を知る神の御子の証しです。②「肉に従って裁く」人間ではなく、「父(なる神)と共にいる」御子です。③「二人が行う証しは真実」(→申命1915)なので、「父もわたしについて証しをしてくださる」ことで十分なはずです。

彼らは、「あなたの父はどこに?」と大切な質問をします。しかし、「彼らは、目の前に御子がおられるのに…見ていないのである。」(カルヴァン)主は、彼らが「わたしもわたしの父も知らない」と嘆かれますが、幸い「だれもイエスを捕らえなかった」ので(→7:30)、その時も守られました(私たちの生死も!)。

暗闇の中を歩むような時でも(ニューマン牧師の苦難!)、「妙なる道しるべの光」(288)となってくださる主です。




2017年9月17日
「『わたしはある』ということを信じないならば…罪のうちに死ぬことになる。」 ヨハネ8:24

仮庵祭は秋の祭りですが、翌年の過越祭(春先)に、主イエスは十字架の死を迎えられます。まもなく去って行かれますが、これからも信じる者と一緒です。

「わたしの行く所(天)に、あなたたちは来ることができない」と主はユダヤ人たちに言われます。彼らは、「自殺でもするつもりなのだろうか」と見当違いな見方をします(→7:35)。主は救い主として御父から遣わされたので(→316)、主を信じなければ「自分の罪のうちに死ぬことになる」と語られます。

その真剣さに気付いた人々は、「あなたは、いったい、どなたですか」と真剣に問い、主も「それは初めから(=根源的な問題として)話している」とはっきり答え、これは御父からの「世に向かって語る」メッセージだと言われます。

それでもまだ「イエスが御父について話しておられることを悟らなかった」人々に対して、「人の子(イエス)を上げたとき(十字架→復活→昇天)…分かるだろう」と言われ、御父は「わたしをひとりにしてはおかれない」(→1632)と信頼を語られるので、心を打たれた人々は「イエスを信じた」とあります。

「わたしは(確かに・あなたと共に)ある」(→出エジプト3:1214)と信じて、「わが君」(352)と歌います。




2017年9月24日
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ヨハネ832

主イエスを「信じたユダヤ人」の多くは主の「言葉にとどまる」ことが出来ずに去ります(日本の伝道の問題!)。

主は彼らに「キリスト者の自由」(ルターの宗教改革のモットー)を与えたいのです。しかし、「アブラハムの子孫…奴隷になったことはない」ことを誇る彼らは反発し、神の御子と共に「子どものような自由」(カルヴァン)を味わえる救いを拒絶するのです(罪の奴隷!)。

ユダヤ人の先祖アブラハムは神に従順でしたが、彼らは父親似ではなく、むしろ「自分の父(悪魔→8:44)」に似ていて、「わたしを殺そうとしている」と言われます(姦淫によって生まれた!)。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである」というのが大切です(憎む人→愛する人)。

主は、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか」と嘆かれます。彼らは主の「言葉を聞くことができない」のです(会話のない夫婦!)。「悪魔は…真理をよりどころとしていない」のですが、主は「真理を語る」方です。「神に属する者は神の言葉を聞く」はずです。(→百年史『御言葉に導かれる教会』)

主の真理に生きる私たちは、快晴の空(918日!)のように、晴れやかに「光に歩めよ」(讃326番)と歌います。